関西を飛び回る!来年90歳、軍国少女だった久保さん
大阪空襲の語り部をしている久保さんと小学校へ行ってきました。
今年2月に二分の一成人式で経験を話させてもらった小学校から、平和学習で話をしてほしいと依頼をいただいていました。
でも、私は国内外の戦争の証言を聞いてきただけで、生きて目や耳や鼻や皮膚で感じてきた戦争を知っている久保さんの話を子ども達に聞いてほしかったので、8年来お付き合いさせてもらっている久保さんに連絡をしました。
久保さんは2018年で御年90歳。大阪の空襲のことを話だしたのは60代に差し掛かたころでした。辛くって、悲しくって話せなかったんだって。当時、久保さんは17歳。学徒動員で大阪城の近くで爆弾の製造工場で爆弾を作っていました。マスクもなく、久保さんの嗅覚は爆弾製造の過程で未だにほとんどありません。そんな多感な時期に大阪で爆撃にあい友人や人や動物がなくなっていくのを次いつ殺されるか分からない中、時代を見ていました。
久保さんは思い出すのは辛いし悲しい。でも、やっぱりそんな思いを皆にしてほしくないって話をしはじめました。関西を飛び回り大阪空襲の話を学校や色んな場所でいっぱい話をしてきました。
当時の畑が広がり、牛や馬が人々の暮らしを支えている。今のような大きなビル群がないのどかな当時の大阪。
現在、アメ村や大丸がある心斎橋、ユニバ、環状線京橋駅、大阪城。どれも馴染みのある場所は焼夷弾や機銃掃射で焼け野原になりたくさんの人が亡くなっていたことを知った時は、当時大学生ながら、なんとも言えない気持ちになりました。
今、楽しい場所になっているユニバーサルスタジオジャパン。孫にせがまれて連れて行ってみたものの、爆弾が落とされてたくさんの人が亡くなって、悲しい思い出で中に一歩も入れなかった。
久保さんの話をいっぱい聞いてほしくて、私の話は極力少なめで!とお願いして、一瞬話をさせてもらいました。
「戦争の話は過去の話だけど、未来を考える話になると思います。
久保さんの話を聞いて、じゃあ今何を考えられるのかな?何ができるのかな?ということを感じてほしいです。」
今回、話をきいてきれていた子ども達も、真剣な目をして聞き、たくさん久保さんに質問していました。
久保さんの子ども達を見る目は、爆撃や内蔵が出た黒こげの死体を思い出しながらも、未来をみる優しい目をしていました。
ユニバで当時たくさんの人が爆撃でたくさんの人が亡くなった場所で悲しい気持ちや、そこで罪悪感をもし持ったとしても、体と心を持って今を生きている私たちが楽しんで命を生きていることが大切なんじゃないかなあって思います。
戦争の話を聞いてじゃあどうすんねん!ってず~~と、何年間も悩んで考えて色んな国内外の人達にアドバイスをもらって、ちょっとずつ自分なりの答えが出てきたんですよ~^^
今の日本の平和教育は、話を聞いて感想を書いてはい終わり!というところが多いのかな~と思います。
ほいでも、日常の積み重ねだから、その中で楽しくできる方法のヒントがたくさんあることに気づきました。
また、次のステップとしてこの小学校に具体的な方法を皆で一緒に考える授業に、うちの仲間も一緒に行かせてもらう予定です^^
楽しみ~♩学校の先生の皆様本当にいつもありがとうございます。
久保さんに、
「もう年やし、今年で講演やめようかな~って思ってたけど、あんたに呼ばれたから来てもうたやんかあ~~!!」
「そんなん言うても、久保さん年々若なって綺麗なってるやん!!」(ほんまに年とらない人なんですよ久保さん…)
って、何気ない会話ができるのって幸せですだ。
おまけ↓
久保さんとは学生時代からの関わりで、私の人生のターニングポイントの1人です。大学生の時に入っていたボランティアのユネスコでの全国研修の実行委員になって何かテーマを決めないといけず頭を悩ませていました。開催地は地元の大阪。住んでいる周りを見渡すとなぞの石碑がたくさん。それは空襲や機銃掃射で亡くなった方達の慰霊碑でした。
ががーーん。全然知らんかった~!大好きな大阪でそんなに戦争の跡があったなんて~!
ということで、知りたいな~と誰から話を聞けるんやろ…と思ってネットで久保さんのことを知りプルプル緊張しながら久保さんに電話したのがはじまりのきっかけでした。
(そこから知りたいが加速してスリランカ行ったり、国内外の戦争のことを聞きに行くなんて思っていませんでした。あはは)
久保さんいつもありがとう~^^
私はちゃっかり給食いただいちゃいました。うまし!