世間の水圧から抜けるそのまんま哲学
前回に引き続き仏教哲学者のひろ さちやさんの「狂いのすすめ」の本を読み進めている。
著者の中に、
仏教講演会が終わった後控え室にきた25才前後のひきこもりの青年が訪ねてきて、
「先生、ぼくは引きこもりなんです。どうすればいいでしょうか?」と質問をして、こう答えました。
「きみね、せっかく引きこもりになったのだから、もうしばらく引きこもりを続けなさい」
すると青年はにこっと笑った。
こ、これが仏教的返しか‥!!
と近くにいたらスタンディングオベーションしたい‥!!と思った。
続けて、
きっと彼は「引きこもってはいけない。何かせなばならない」と悩みに悩んでいるのです。
われわれには「自分が自分であっていい」という、基本的な権利があります。
そのまんまは、あるがままです。いまあるかままの自分、そのまんまの自分をしっかりと肯定する。それがわれわれの哲学です。
仏教は「老、病、死」を敵視しません。それどころか、むしろ仲良くしようとします。敵視することは、自分自身を敵視することになります。それは愚か者のすることです。
仏教をサラッと表面だけ聞きかじったら、老、病、死って仏教ってなんかしんどそう‥!と勝手に思っていたのが、あぁそうゆうことに繋がるから唱えてたのかと思った。
ディズニーのアナと雪の女王が大ヒットした一つの理由に、ありのままの自分を生きるや、
インド、ボリウッド映画「きっとうまくいく」もカースト制度が残るインドで、悩みながらも周囲の反対を押しのけて、大学生が自分の意志で生き方を選択していくこれまた大ヒット映画なのだが、
世界があるがままで生きれないことに限界がきた!!
という一種の表れなのではないかと思う。
特に日本では、ここが足りないから成長しなさい、頑張りなさいと足し算教育だと感じる。
私は頑張るの取り扱い方があると思っていて、
不足感からの出発(今の自分ではだめだ、価値がない)から頑張るのと、
そのままの自分でオッケ〜!というベースがあって、でももっとここを頑張ったらおもろいかも!の出発だと、
前者は頑張るを続けて疲れないだろうかと思う。
私は思いっきり前者だった。
頑張るのが良いことだと信じてきたし、子どもの頃から大人に頑張れと言われまくってきた。
頑張ることがしんどい時もあれば、楽しい時もあったし、頑張った結果得たものや出会った人がたくさんいる。
だから、頑張ることが悪いことではないと思う。
しかし、「生きてるだけでもうすでにオッケ〜」感を醸し出しながら、ついでにやりたいから楽しそうだから頑張る。(ただし本人はやりたいからやっているのであって頑張っている感覚はなし。)
が、今の足し算教育からの脱出の一つになるのではないかと思う。
そうすれば、流動的な世間的の批判的な声に左右されず、
あるがままを生きれるのではないかと思う。