ころころ言うことが変わる世間から距離を置く
仏教哲学者の、ひろ さちや さんの「狂い」のすすめという本を読んでいました。
その本の中で、
ホリエモンと呼ばれる人が、ノーネクタイでいると、世間の人々は礼儀知らずと非難しました。
だが、日本の政権党は選挙にその礼儀知らずの人を担ぎ出し、そのためでしょうか、総理大臣は、クールビズとかと言ってノーネクタイ運動を始めました。
ひろ さちやさんは、ころころ変わる世間に絶対的信用を寄せてはならないと言う。
私は精神的に「世間」から距離を置きたいと思っている。
特に、戦時中に生きた人達の言葉を聞いて、今の世の中が言っている言葉を比べてみると、
面白いほど(滑稽なほど)世間の言ってることは、流動的でころころ変わり、あんなに絶対的な信用を寄せていた概念は一瞬に崩れ去り何事もなかったかのように振る舞うのだなぁと思う。
当時盛んに叫ばれていた鬼畜米兵、贅沢は敵など時代背景が絡んだ世間の常識は、
アメリカ万歳主義、番組など消費を煽る社会になっている。
人の言葉も、世間のすりこまれた常識から発するものは、うんざりすることが多い。
テレビが言っていた、誰それが言っていたは基本的に私は右から左にす〜っと流している。
だがしかし、自分自身気づかぬ間に世間の常識の刷り込みにあっていたことが往々にしてあることにショックを受けた。
一年前ほど、メガネを新調しようと木製のフレームを探していた。
なかなか木製が見つからず、それならべっこう柄かなぁ、、とメガネ屋に行った。
メガネ屋に貼られた大きな広告ポスターを見ると、モデルがべっこう柄のメガネを着用している。
私は店員さんに、今べっこうが流行ってるんですか?と訪ねた。そしたら、今大流行しているとのことでした。
そこで疑問に思ったことは、
①流行を先取りして自分の意思でべっこう柄のメガネがほしいと思っていた。
②街中などで歩いたりしてる中で広告に触れ、無意識下でべっこう柄のメガネがほしいと思っていた。
私はほとんどテレビを見ず、商業雑誌なども見ない。記憶をたどっても、街中での広告を見てべっこう柄のメガネが良い!と思ったこともない。
①か、②かの答えはわからないし、実際とてもどっちでもいい話だ。
しかし、ここで気づいたのは、もし②だとしたら、ころころ変わる世間の常識に無意識に踊らされていたのかもしれないなぁと思う。
誰の言いなりにもなりたかないという反抗心と、うおお、あぶねーこうやって人は知らない間で世間の刷り込みに合うのか!!と、
一見自分で選択をしているようで、
何かに踊らされてないか?
を、考えるようになった。
それは、物を買うことだけではなく、目に見えない「考え方」も注意を払いたいと思う。
自分の考えていたと思い込んでいたものは、誰かの言葉だったり世間の言葉かもしれない。
Hoooooo!!!!!