循環という名の違和感〜「変える」のではなく「戻る」〜
つ、、つながった…!!
ふ、、腑に落ちた…!!!
久しぶりにきた!!この感覚。頭じゃなく身体が飲み込んだという感覚。
最近よく耳にする「循環」というワード。
ちょっと自分の中で違和感あったんですよ。
言葉が一人歩きしている感じというか、循環ということが、大事なことは頭ではわかっているんですけど、本当に自分はわかってるのか…?なんていうモヤモヤ感がありました。
【循環】を意識してしまう時点で、循環が滞っているのではなかろうかと。
そして【循環】【持続可能】という言葉を使っているというだけで、満足して思考停止していたのではないかと!!!
※もちろん言葉で終わらず実践している方もたくさんおられます。^^
なぜなら、本来の自然な生き方をしていれば意識をしなくても色んなものが循環しながら暮らしているはずなんじゃないかと思ったんです。
人も、物も、思いやりも、経済も色々。
インディアンのおじいちゃんに、理解し合えない人達がいる中でどうしたら理解し合えるのかという質問をしたことがあるんです。現場に行くと色んな人の主張や正義があってどれが、何が正しいのか、私にはわからなくなってしまっていました。
そしたら、紙とペンを出してきて二重の円を書いて、
「これ何かわかる?」
「これは真ん中の円は月、外側の円は地球」
そして、私の身体に円を描くように、
「めぐみの身体には血液が回っているだろう。呼吸もしている。目も見える。足で歩ける」
「いつも、輪を感じて生きなさい。」
というものでした。
そ、、それがヒント…??そして一年間その言葉を思い出しながら自分なりの答えを出そうとしていました。
で、ある日大好きな出版社でじゃこめてぃ出版の編集者石川さんに「99歳ちりつもばあちゃんの幸せになるふりかけ」という本をいただき読んでいました。
そのばあちゃんの言葉に
「なんでもぐるぐるまわっている。ものも、こころも、命でさえも」というものがありました。
物事がサラサラ川の流れのように進んでいる時、皆が一緒に喜んでいる時、ってやっぱり回っている=循環している時だわと繋がりました。
インディアンのじいちゃんの言葉と繋がり、どの時代も、国も関係なく、言うてること大切にしていることは同じなんだなあと思った。
自分の経験でいえば、
・何か食べ物もらってお裾分けして皆おいし嬉しいハッピー。また返ってくる。
・この本よかったな~と思えば他の人に回す。
・講演の時に特に意識していることは、色んな人の知恵や心を分けてもらったことを、ま た皆に分ける形で話すようにしている。そしたら、「今まで親にとめられてきたことを自分の意志で決めました」など、勝手に皆が一歩踏み出している
・ご飯なんて、もう命いただきまくり。木がなきゃ空気も吸えんし瞬殺。あざす!
・稼いだお金も自分の命の時間、誰かのお金もその人の命の時間の回し合い
なんだなあ~と思いました。
回りながら生きることが、人も心も循環、拡散されていがみ合い殺し合いまでいくことを止める一つの大きな手段になるのではないかと思いました。
逆に言うと、【滞り】が、何かの不調をおこしているんだということ。
自分だけ所有しようとするから不調がおこる。
壊したままだと不調がおこる。
感情やこころを押し込めてフタをしてせき止めるから不調がおこる
不信や猜疑心という不調がおこる
のだなあと思いました。
あえて言葉にすることで【違和感が出る言葉】というものに少し敏感になる時があります。
それはたぶん、言葉に出さなくても本来の人間の力や感覚がもっているもの
あ、もう生きてるだけでもう循環していたんだ!と。
全身をまわる血液も、森達が出してくれた酸素をもらい、私たちの身体の中で駆け巡った二酸化炭素を空気に戻しまた森達に返す
きっと、今本来の自然な生き方の方向性が逆行してしまい
「あえて言葉にしなくちゃならなくなってしまった言葉」っていっぱい出てきたんだと思います。
ついでに言えば、【持続可能系】も流行ってる感じがします。違和感。
【持続不可能系】してたってことだもんね?
文部科学省が提唱しているESD(Education for Sustainable Developmentの略で「持続可能な開発のための教育」)も、
そもそも、教育って形を変えながら、試行錯誤しながら、失敗したり発見したり続いていくものだからわざわざ【持続可能な開発のための教育】という言葉を使わないといけなくなってしもうた状況が自然ではなくなってしまったのではないだろうかと思うんです。
だからこそ、人間の本能が目覚めてこっちの道やあらへんから戻そうや~~みたいな感じで、あえて言葉にした人間の本能グッジョブ★って思いました。
「変える」のではなく「戻る」
本当はシンプル