真実は皮膜の間にある
「真実は皮膜の間にある」
と残した言葉があります。
看護師を辞め、カメラマンになり、「真実とは一体何なんだろう」と考えることが多くなりました。
戦争の証言を聴くなかで、日本軍のおじいちゃん達や軍国少女として作られ軍事産業で武器を作り続けたおばあちゃん。イラクアフガン、ベトナムに戦争しにいった米兵。亡命した同じ年のルワンダの友人。
資本主義経済にとりこまれたスラム街に一緒に住む中で見えてきた、一度落ちると出口が見えない社会構造。
しかし、答えは見つかる訳もなく、色んな人達の言葉や本を紡ぎ合わせたり、実際自分の目で見たこと聞いた事、感じた事を集結させて考えてみても、真実はこれだというものが出てこない。
何かに取り憑かれるように頭の片隅に真実は何だろうというものが常にどこかにありました。
そもそも何で真実を探さないといけないのだろうという疑問の中に、
人間の生存欲求のような「生きなければならないのかもしれない」
という本能的なものがあるから探してしまうのではないかと思うようになりました。
言い換えれば、このままその状況のまま放っておくと人間の生存率が低くなるからどうにかせんといかんのじゃない??と何かに駆り立てられて動くかんじ。
資本主義社会に組み込まれたマネービジネスによって、自然や人や動物の命が殺されていってしまう状況に立ち向かう人々を見てきた中で、自分の中での核心が少しずつ感じ取られてきた気がします。
それは、
「生きる命と死ぬ命の中で、この瞬間を生きることを全細胞で喜ぶ」
というものを大切にしていくことが、結構イカしているんじゃないか??
ということ。そういう人達は弾圧の中で大変な生活をしているのだが顔だけでなく全身全霊で生きる喜びを体現して幸福そうなのだ。
しかし、言語化することで逆に説明が簡素化してしまう事例でもあるのではないかと思う。
伝えるために言語化しないといけないし大切なことだと思うが、言語化しすぎることを私はあまり好きではない。
何か大切なものを落としてしまっていないかと思う危惧があった。
言語化できない私はやはりアホなのかと憂いていた。
話を近松門左衛門に戻すと、「真実は皮膜の間にある」という言葉に、
なんで皮と膜やねんとつっこみたくなるが、
私たちは感じて生きる生物であると思う。
今の生き方だと、感じる事が少なくなってきているような気がする。
門左衛門が書いた「心中天網島」を映画化した篠田正造は言葉と言葉の間にある意味だろうと考察している。
真実は言葉にし得ないし文字にもできない。
それを、
誰かの言葉でもなく、
誰かの文章でもなく、
自分が感じたことを真実にしてもいいし、もはや真実を無理に伝えなくてもよいのではないかと思う。
誰かの出した真実に振り回されるものかと思う。